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No.189


Profile

   1958年、和歌山県生まれ。三菱重工サッカー部(現浦和レッズ)を経て読売クラブへ。現役引退後は指導者として読売クラブジュニアユース監督、ヴェルディ川崎サテライト監督などを歴任。’05年サガン鳥栖にヘッドコーチとして招聘され、’07年より監督に就任。今年、監督として2期目のシーズンを迎えた。



サガン鳥栖 監督
  岸野 靖之  さん  - Yasuyuki kishino -
「 監督として、この純粋な選手たちをきちんと成長させてあげたい、そして、このチームをもっと強くしたい、そう強く思いました 」

  ’08年のJ2開幕戦となった3月8日。ベストアメニティスタジアムにモンテディオ山形を迎えたサガン鳥栖の選手達は、開幕戦の緊張感のためか動きが固く、山形の攻勢に押し込まれる場面が続いた。このままスコアレスドローに終わるかと思われた後半40分、相手のクリアボールに合わせ、DF飯尾選手が思い切ったダイレクトボールを放つ。弧を描いたボールはゴールキーパーの指先を越え、ゴール右隅に吸い込まれた。大歓声に包まれたスタジアム、そして、選手達と抱き合い、喜びを爆発させる岸野靖之監督。このゴールが決勝点となり。サガン鳥栖はJ2参戦以来初めてとなる開幕戦での勝利を手に入れた。
  岸野監督がサガン鳥栖に招かれたのは今から3年前。当時の松本育夫監督(現GM)の要請を受け、ヘッドコーチとしてチームに合流することとなった。
「当時はまだサガン鳥栖のことをほとんど知りませんでしたし、ヘッドコーチとしての招聘を受けたときも、ギリギリまで悩みました。しかし、当時の松本監督の『このチームをなんとかしたい』という熱い気持ちに打たれ、佐賀に行くことを決意したんです。新しい環境に身を置くことで、自分の可能性にチャレンジしたい、という思いもありました。3年前にチームに合流した当初は、『勝つために必要なこと』が何か、チームがまるでわかっていなかった。上を目指すチームに必要なものが大きく欠けていたんです。僕が来た時にはチームの編成は終わっていたので、その時点で僕ができることは、現有戦力で少しでも多くの勝ち星を上げること。翌年から選手を集めて、ようやく戦える集団にすることができました。このチーム編成が、最初の大きな仕事でしたね」
 ヘッドコーチとして2年目のシーズンとなった’06年。チームは、松本監督と岸野ヘッドコーチが目指した「つなぐサッカー」を体現し、チーム創設以来最高の4位という大躍進を遂げる。シーズン終盤に発表された来期の松本監督勇退、岸野ヘッドコーチ監督就任の人事で、チームは再び大きな変革を迎えることとなった。
「松本監督から指揮官としてのバトンを渡されたときも、プレッシャーは全くありませんでした。選手のことを信頼していますし、その選手達と一緒に戦うわけですから、何の不安もありません。このチームはやり方次第でもっとよくなる、と思っていましたし、このチームに残ることが、チームにとっても、そして自分自身にとっても良いことだと確信していました。この純粋な選手たちをきちんと成長させてあげたい、そして、このチームをもっと強くしたい、という想いが強かったですね」
 監督として初めてチームを指揮した’07年、上位に迫る勝点72の8位という結果を残した岸野監督。そして’08年、昨年の主力メンバーを中心に構成されたチームは苦しみながらも開幕戦を制し、その底力を見せつけた。岸野監督の指導のもとさらに完成度を増したチームは、今年もJ1昇格というゴールに向け長い道のりを走り始めた。
 「ピッチ内はもちろん、ピッチの外でも24時間選手のことを思いやることができる」と松本GMに評価される岸野監督。監督の言葉の端々からは、選手達に対する愛情が伝わってくる。
「選手達がグラウンドで迷うことなく思い切ったプレーができるように、24時間選手のことを第一に考えて行動する、それは指導者として当然のことだと思っています。選手達にも、人としての常識を持って、人のことをしっかりよ思いやれる、温かみのある人間になってほしい。人のことを考えられないような人間を、誰も助けてくれません。それは、きっとサッカーでも同じことです。ひたむきな選手達が揃ったサガン鳥栖、今年はチームが大きく成長しそうな予感がします。みなさん、ぜひ応援してください」

※プロフィールなどの記述は「月刊タウン情報さが」掲載当時のものです。

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