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No.144


Profile

大正6年6月13日、神埼町、旧仁比山村に生まれる。大正12年、六歳の時、大人から関東大震災の話を聞き、日本はつぶれるといって、小半日泣いた記憶を持つ。同じ頃初めて習った漢字が『花』だったことも。昭和5年、旧神埼高女。ここで俳句と出会い、12年、20歳で「毎日俳壇」などに投句を始める。15年に結婚した夫は18年にラバウルで戦死。20年、神埼町飯町に帰郷。作句を続けながら投句を続ける。25年、事務員として就職。33歳の時、洋裁店開業。26年「寒雷」同人。37年「海程」同人。47年「鋭角」同人。51年「北原志満子句集」上梓。平成3年、佐賀県芸術文化功労賞。8年花神現代俳句「北原志満子」上梓。16年「つくし野抄」上梓マスコミに登場することも多く、数々の作品を発表、入賞等あり。昭和60年から現在まで富永始郎の後を継いで佐賀新聞の俳句選者となる。


佐賀の若者たちへの
メッセージ

「人生は迅い。振り返って今私が若い貴方たちに伝えるほどの言葉もありませんが、老いも若きもない程の暫くの人生を、どうか大切に。愛と希望を失わず、そして自分を鍛え磨き、好きな道を選び探究するのも意義ある事と思います。」


俳人

北原 志満子 さん

俳句を作ることは、私にとって使命です。
これからも作り続けます。

 神埼郡の旧仁比山村生まれの北原シマが俳句と出会ったのは、旧制神埼高女時代。「先生の俳句に対する情熱に魅かれた」由。その先生、川崎弥夫氏に国語を習ったことがこの道の始まりだった。旧家の家系に嫁いでからも、姑に気兼ねしながら、俳句雑誌を取り寄せ研鑽を重ねた。

 本名から俳号「北原志満子」になった頃には、いつしかその存在が認められるようになっていた。母の曽祖父に江戸末期の戯作者が居り、母は大の小説好きで子どもの頃、よく蘆花や漱石の本を読んでくれたという。音楽好きの兄の影響も大きく、「文学の血が流れているか」と本人は笑う。

 戦争未亡人となって一時住んだ鎌倉から、戦後母や兄一家と仁比山村飯町に帰郷、事務員として佐賀鉄工所に勤めたが、四十歳近くになって佐賀の中牟田洋裁学院に。二年間むきになって学ぶ(氏の略歴記述から)。あと、佐賀市内に洋裁店を開業する。「苦労も多かった」が仕事は二十年以上も続けた。

 吟行の時も普通の時も、頭に入れていて、作る時自然に出てくると、いとも簡単に俳句が出来ているようだが、一方俳句は形も大切、それを何度も書きかえ、文字をえらび推敲を重ねるとも言う。

 洋裁を生業とした事など考えると、意外と頑張り屋的性格かもしれない。

 句集などに残している作品約千三百句、それ以外に捨てる句も当然ある。しかし「捨てた句などどれだけあるか分からない」と素っ気ない。その5倍は下らないだろうと関係者は言う。

 それにしても、「俳句を作ることは、私にとっては使命感です」と、俳句が生活、人生の中心になっていることは間違いない。現在、佐賀新聞の俳句欄の選者、他に毎月四回各地の句会で指導にあたっている。

 佐賀の俳句レベルはかなりなものですと評価しての指導で、将来を期待したい。この3月に出版した句集『つくしの抄』に、俳句界の重鎮金子兜太氏は志満子句を朴の花にたとえての句を献じている。

 「これからも作り続けます」という北原志満子に老の力みなどはない。



※プロフィールなどの記述は「月刊タウン情報さが」掲載当時のものです。

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