logo
編集室:佐賀市若楠3-1-15
株式会社 西日本情報センター
電話:0952-33-3155
FAX:0952-33-3166


連載 第11回 核開発の歴史が教えるもの

執筆者

豊島 耕一 Toyoshima Kouichi 経歴/佐賀大学理工学部教授。九州大学大学院卒... ≫詳細



 現在稼働している原発は全国でわずか関西電力の2基ですが、3・11の前まではたくさん稼働していて、電力の3割を供給していました。その原発のエネルギー源は原子核の分裂という現象によるものですが、これを利用するための研究開発のもともとの目的は発電や動力のためではなく、兵器、つまり原子爆弾のためでした。その開発の過程で原子炉が作られ、その技術が発展して今日の原子力発電に使われるようになったのです。そしてそれは電力という形で人々の生活に役立つ一方、被ばく労働や、そして残念なことに福島原発災害という悲劇をもたらすことにもなりました。
 この一連のプロセスの中で、科学技術上の多くの達成や成果の反面、多くの過ちや、そして欺きも繰り返されました。歴史では全く同じことが繰り返されることはもちろんありませんが、過ちの「パターン」というものは似たり寄ったりでしょう。科学技術の歴史を知ることで、過去の過ちを繰り返さないための知恵を多くの人が獲得することができるのではないでしょうか。この小文がそれに役立つかどうか分かりませんが、出来るだけ重要ポイントを落とさないように、世界と日本の核開発の歴史をまとめてみたいと思います。


核分裂の発見から原爆へ

 原子爆弾は、核分裂という現象が発見される24年も前の1914年に、作家の想像力によって生み出されていました。イギリスの作家H・G・ウェルズの「解放された世界」というSF小説では、全面核戦争によって世界のほとんどの国が壊滅してしまいます。それは1956年のこととされていますが、広島、長崎の原爆投下という、部分的ではあっても核戦争が起こったのが1945年のことで、わずか10年ほどの「誤差」しかなく、作家の想像力には驚かされます。
 原爆が実際に製造可能であることを初めて示したのは、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスという2人の物理学者で、その研究結果は、ヒトラー政権から逃れたイギリスで「フリッシュ・パイエルス・メモ」と呼ばれる覚え書きとしてまとめられました。1940年2月のことです。フリッシュはオーストリアのユダヤ人の家系で、核分裂の発見者の一人であるリーゼ・マイトナーの甥にあたります。
 この2年前の1938年のクリスマスに、フリッシュは、やはり亡命してスウェーデンにいたこの叔母を訪ねました。そこに届いたドイツの共同研究者オットー・ハーンからの手紙に、最近の奇妙な実験結果のことが書いてありました。そのことについて二人で雪の中を歩きながら議論をするうち、それが中性子によって引き起こされる核分裂であるという結論に達したのです。スキーを履いたフリッシュにマイトナーは早足でついていきました。

ハーンとマイトナー。1910年頃。


 「フリッシュ・パイエルス・メモ」はイギリス政府の原爆に関する委員会で取り上げられ、検討を加えられたあと1941年の夏に委員会が極秘の「モード報告書」を出して原爆の可能性が公式に認知されます。この報告書はすぐにアメリカにも伝えられます。1941年10月9日に、ルーズベルト大統領がこの報告書の説明を受けて原爆製造計画にゴーサインを出します。このプロジェクトは「マンハッタン計画」という暗号名で呼ばれ、ヨーロッパからの亡命科学者を含む当時のトップクラスの頭脳が動員されることになります。
 アメリカでの原爆製造計画のきっかけとしては、1939年のアインシュタインのルーズベルト大統領宛の手紙が有名です。しかしこの時はまだ原爆の可能性は具体的ではなく、政府を動かすには至っていません。


史上初の原子炉からプロトニウム生産炉へ

 原爆にせよ原子炉にせよ、核エネルギーを発生させられるかどうかは、本シリーズ第8回にあるように、中性子による核分裂の連鎖反応の成否によります。これを確かめるために、まず、最も単純な構造の原子炉が作られました。高純度の黒鉛(炭素)のブロックと、金属の天然ウランとを組み合わせて積み上げていくというだけのものです。
 この人類史上初の原子炉は、イタリアからの亡命物理学者エンリコ・フェルミの指導のもと、 シカゴ大学のフットボール競技場の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設されました。「シカゴ・パイル」と呼ばれることになる高さ6m、直径約8mの少し扁平な球形に積み上げられた黒鉛とウランの固まりは、1942年12月2日に核分裂反応が持続する状態、つまり”臨界“に達しました。何の防護壁も冷却装置もなく、ひとつ間違えば「チェルノブイリ」となって実験者全員が犠牲になりかねない非常に危険な実験でしたが、フェルミの優秀さにより成功し、この時は発熱量わずか0.5ワットで4分ほど運転されました(それでも実験に立ち会った人はかなりの被ばくをしたはずです)。これで核分裂連鎖反応は、机上の理論から現実のものになったのです。

エンリコ・フェルミ


 「シカゴ・パイル」は全く実験目的の原子炉でしたが、次にプルトニウム生産のための原子炉が作られました。天然ウランの99・3%を占めるウラン238が、原子炉内ではこれが1個の中性子を吸収して、最終的にプルトニウム239になります。これは高性能の核分裂物質で、これで長崎に投下されることになるプルトニウム原爆が作られました。

史上初の原子炉シカゴパイル


 ワシントン州東南部に作られた(最寄りの町はリッチランド)ハンフォード原子炉は3基からなり、それぞれの熱出力は25万キロワット(玄海3号機は340万キロワット)でした。また、天然ウランに0.7%しか含まれていないウラン235を取り出す(ウラン濃縮という)大規模な工場がテネシー州のオークリッジというところに建設されました。

ハンフォードのプルトニウム生産炉



核開発史年表




原爆開発に関わった科学者たち

 いずれも大規模な事業で、マンハッタン計画全体の費用は当時の価格で20億ドル、現在の価値に直すと200億ドル(約2兆円)という規模になります。デュポン社やユニオンカーバイド社などが参画し、ここで核をめぐる軍産複合体が形成されていったと思われます。原爆開発の初期には、ハンガリーからの亡命物理学者レオ・シラードなど一部の科学者が熱心に動き、推進役を務めましたが、その背景には、ナチス・ドイツに先を越されることへの恐怖がありました。しかしここまでの大事業となると、科学者の意欲に取って代わって企業利益が、この計画の推進力になったのではないでしょうか。
 有名教科書の著者だったり、物理公式や物理学用語になったような多くの著名な物理学者がこの計画に参加しました。原爆の完成が見えてきた1945年春にはすでにナチス・ドイツは降伏しており、科学者たちの間に疑問が生じました。最初の原子炉「シカゴ・パイル」が作られたシカゴ大学のグループが中心となって原爆の社会的、政治的影響を検討し、のちに「フランク報告」と呼ばれる文書を政府に提出しました。その中で科学者らは日本への原爆投下に反対しましたが、政府がこれを意に介した形跡はありません。
 多くの科学者が原爆開発に賛同し参加して行ったのと対照的に、そもそもの核分裂の発見者の一人であるリーゼ・マイトナーの態度は際だっています。彼女は広島原爆投下の直後にはメディアから「原爆の母」と呼ばれますが、実際には正反対です。彼女はユダヤ人だったためオットー・ハーンとの共同研究が出来なくなり、ドイツから亡命を余儀なくされました。亡命先でも不遇だったのですが、その時アメリカに移ってこのプロジェクトに加わらないかと求められました。職と自由とが得られるにもかかわらず、彼女は「私は爆弾には関わらない」と断っています。
 日本への原爆投下については、人道的、国際法的な問題はもちろん、戦争遂行上の目的についても議論があるところです。長崎原爆投下の2日後に、言ってみれば”わざわざ“、久留米空襲がされているという例を見るだけでも、爆撃というものが百パーセント戦術目的だけで行われるものでないことは確かでしょう。


原爆から原発へ

 このように、初期の原子炉はプルトニウム生産が目的で、発電などエネルギーを生み出すものとしては、米海軍が潜水艦の動力として作ったものが最初です(ノーチラス号、1954年進水)。陸上の実用的な原子力発電所としてはソ連・モスクワ郊外のオブニンスクが世界初で(1954年)、イギリス・カンブリア州のコールダーホール(1956年)、そしてアメリカ・ペンシルベニア州のシッピングポート(1957年)と続きます。
 このように本格的に原子力発電が行われることになったのは、1953年のアメリカ大統領アイゼンハワーが国連総会で行った「平和のための原子力」(Atoms for Peace)演説がその起点とされています。しかし、すでに原爆開発で巨大に成長した核の軍事産業が、原子力発電という民間ビジネスにも触手を伸ばし始めたのに対し、それを政治が後押ししたというのが真実ではないでしょうか。
 この演説でアイゼンハワー大統領は、「核兵器を兵士たちの手から取り上げることだけでは十分とは言えない。そうした兵器は、核の軍事用の包装を剥ぎ取り、平和のために利用する術を知る人々に託さなければならない」と述べて、明確に核兵器廃絶も主張しています。しかしこの途方もなく困難な課題について何ら具体的方策は述べておらず、単なるリップサービスに終わっています。それどころか、アメリカはこの演説の3ヶ月後には、南太平洋のビキニ環礁で広島原爆の一千倍もの威力を持つ水爆(註1)の実験をしています。この核実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんは帰港後に急性放射線障害のため亡くなり、国内に大きな衝撃を与えました。

ビキニ水爆実験



第五福竜丸・久保山愛吉さんの遺族



原子力平和利用博覧会(1956年)。
中国新聞社提供(2011年7月13日から)。





日本への原発導入

 アイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」演説に呼応するかのように、日本の国会では1954年度予算の修正として日本初の原子力関連予算3億円が盛り込まれました(4月3日成立)。原子核物理学者の間では、原子力の導入に反対ないし慎重の声が多かったのですが、中曽根康弘氏らによって「科学者の頬を札束でたたく」やりかたでスタートが切られました。いっぽう科学者の側は、「学者の国会」と言われた日本学術会議がこれに一種の「歯止め」をかけます。予算成立の20日後、総会は「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を決議します。これは形を変えて1956年成立の原子力基本法に、「平和・民主・自主」の3原則として盛り込まれます。
 国レベルで原子力推進の予算は付いたものの、この直後に起きた第五福竜丸事件(前述)は核と放射能に対する国民の不安を掻き立てました。広島と長崎の原爆被害の記憶がまだ生々しい時代です。東京都杉並区の主婦たちが始めた 原水爆禁止を求める署名運動は全国に広がり、署名者は翌年8月までに3千万を超えたとされています。
 このような反核感情を抑え込み、原子力のメリットを国民に宣伝するために、1955年から57年にかけて「原子力平和利用博覧会」が全国11都市を巡回し、260万人を集めています。 これはアメリカが世界的に展開した宣伝工作の一環で、日本では東京の米国大使館と読売新聞社が主催しました。広島では原爆資料館がこの会場に使われ、そのため原爆の惨状や放射線の恐怖を伝える展示が一時的に館外に移されたとのことです。
 しかしこのキャンペーンが単に原子力導入のためだけでなく、別の政治的な目的があったと、NHKが一昨年9月18日に放映した「原発事故への道程」前編では指摘しています。このキャンペーンを主導したのは読売新聞社長で日本テレビ初代社長も務めた正力松太郎氏です。番組の中で、正力の秘書・柴田秀利氏の次のような言葉が紹介されます。
「原子力はもろ刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に歌い上げ希望を与える他はない。」
 「原爆反対を潰す」という目的が真実であるとしても、もちろんこれが全てではなく、ある人は日本の将来的な核武装のため、あるいは企業としての収益性に、またある人は額面通りに将来のエネルギー需要をまかなうために、というような、さまざまな意図が束のようになってわが国への原子力発電の導入が進んで行ったのでしょう。もちろん経済の高度成長や、後ではオイルショックという要因も強く働いたことは間違いないでしょう。


「疑い深くないこと」の代償とは

 このNHK番組はまた、当時原発導入に関わった多くの人々の証言を紹介しています。そこからは、本シリーズ第5回で紹介された「原子力ムラの人々」の発言同様、このプロセスがいかに限られた人々の閉ざされた社会の中で、第三者のチェックも受けることなく進められたかということが分かります。その中から1つだけ紹介します。同番組の「後編」には、原子力安全委員会委員長も務めた佐藤一男氏の、原子力安全委員会での経験を証言しています。佐藤氏によると、安全の研究を口にするのは国民を不安に陥れるだけ、という風潮が強く、安全性を銘打った研究はまず日の目を見ない、そういう時代がだいぶ続いていたというのです。
 この他の多くの証言にも閉鎖性、さらにはいい加減さが見られます。番組は、この無責任さの集積が福島事故につながったのだと、雄弁に語っています。しかしこのようなことは過去だけの話でしょうか? いま現在、表向きの「透明性」や「説明責任」の美辞麗句の裏でそのような無責任が繰り返されてはいないか?
  原子力の分野では失敗の代償があまりにも大きいだけに、疑っても疑いすぎることはありません。
 さらに、「もろ刃の剣」である原子力のもう一方の刃、つまり「軍事利用」の刃も、原発を続ける限りそこに有り続けることを見なければなりません。特に、「リサイクル」の美名で宣伝される使用済み燃料の再処理は、長崎原爆で使われたプルトニウムを製造する技術そのものなので、いつでも核兵器製造に転用できるのです。すでにわが国は45トン(註2)という大量の分離されたプルトニウムを内外に所有しています。青森県六カ所村の再処理工場が本格稼働すれば、さらに大量のプルトニウムが商業生産されることになるのです。


註1)水素爆弾の略。原爆が核分裂反応を使うのに対し、水爆は水素の核融合反応による。起爆には原爆を使う。
註2)核兵器・核実験モニター(ピースデポ)。403号、2012年7月1日。

参考文献
1.山崎正勝ほか、「原爆はこうして開発された」、青木書店、1997年
2.リチャード・ローズ、「原子爆弾の誕生」(上・下)、紀伊国屋書店、1995年
3.Diana Preston, “Before the Fallout”, Berkley Books, N.Y., 2005
4.吉岡斉、「原子力の社会史」、朝日新聞出版、2011年

[TOPへ]

特定商取引法に基づく表記プライバシーポリシー
Copyright (C) Nishinihon Information Center. All